いにしえの小道を歩く

〜オールドダッカ旧跡案内〜

 900万の人々が脈動する街、ダッカは、その遺産を未来によみがえらせようとしています。オールドダッカは、成長を続けるダッカが千年以上も前に産声を上げた場所です。混雑し曲がりくねり今では忘れ去られた街角から、旧跡保全のための探索を始めるとしましょう。ここは、最も古く優美な建築群が、かつて身にまとっていた威厳と壮麗さの伝説として今も残っている場所です。

 過去との邂逅は、53の小道からなる迷路の中に700のモスクと52のバザールを擁するこの街をのんびり歩き、躍動する場の感覚をじかに感じることによってのみ可能です。ここには、その誇り高き姿を損なうことなく保存されるに値するダッカの原風景があります。混雑、渋滞、荒廃、絶望の中に、あるいは多彩な景観の中に、引き出されるべき栄華と美への希望があります。いにしえの小道を行くこの小さな旅を存分に楽しみ、この都市に伝わる美と伝統を発見してください。

聖トーマス教会(St. Thomas Church)

 この英国国教会派の教会は、バングラデシュ国教会(the Church of Bangladesh)として知られています。ダッカ刑務所の囚人によって1819年に建てられ、2年後にレジランド・ヒーバー主教(Bishop Regiland Heber)により献堂式が行われたこの教会は、この地域で最も古い教会の一つです。当時流行していたインド式教会の様式に倣って建てられたこの教会の見どころは、時計塔です。尖塔は屋根から上へ2層高められていて、明り窓があります。主塔のアーチは4つの中心を有する尖りアーチであるのに対し、出入り口や窓の上のアーチはゴシック様式です。この白い漆喰塗りの建物にある繊細な石と煉瓦の細工は、2世紀近くも前と変わらず純粋無垢です。

バハドゥル・シャー公園(Bahadur Shah Park)

 

 この歴史的な公園は、過去1世紀半の我々の歴史の中で多くの出来事を目撃してきました。18世紀末にはこの敷地に小さなアメリカ人クラブがあって、そこではメンバーがビリヤードを楽しんでいたので、「卵の部屋」を意味する「アンダ・ゴール(Anda Ghar)」として知られていました。敷地はその後、公園として使用される円形の道路の島を作るためにイギリス人によって買い取られ、建物は取り壊されました。この公園は、1857年のセポイの乱(スィパヒ・ビドロホ, Sepoy Rebellion)のとき、自由の戦士がここで絞首刑にされたために悪名を馳せました。またビクトリア女王が英領インドの君主に就任した知らせはここから公布されました。その後、ダッカのノバブ(Nawab, 領主)たちは、この場所の汚名を払拭すべく主導権をとりました。現在ここには、当時のノバブの孫の早世を悼んでそのイギリス人が立てたオベリスク(方尖塔)と、セポイの乱100周年に殉難者を追悼して政府によって建てられたもうひとつの記念碑があります。この公園は、聖トーマス教会や聖グレゴリー教会ハイスクール、ロッキバザール・シャヒ・モスジッド、コビ・ノズルール・カレッジといったいくつかの歴史的で華麗な建物に見下ろされています。

コビ・ノズルール・カレッジ(Kabi Nazrul College)

 独立以後「国の詩人」にちなんで命名されたこのカレッジは、もともとモッシニア・マドラシャ(Mohsinia Madrashah)と言う名の宗教学校で、ハジー・モッシン・トラスト(Hadji Mohsin Trust)からの寄付によって1873年に設立されました。この宗教学校のための最初の建物は、マン少佐(Major Mann)によって設計され、1880年に建設されました。この混合ムガール式建築は3つのブロックから成り、ベランダ沿いにいくつものフォイル(foil, 花弁形の切れ込み模様)をあしらったアーチと、腕木の上に延長されたコーニス(cornice, 壁面の突出した水平部分)を持ちます。中央のブロックは2階建ての建物の屋上に2つのドームを持ちます。のちに、いくつかの小規模な建物が建築群の中に加えられています。

ロッキバザール・シャヒ・モスジッド(Lakshmibazaar Shahi Masjid)

 1650年、モホンモディ・ベグ(Mohammadi Beg)の治世に建てられたこの小さなモスクは、色鮮やかな陶器のモザイクのある、屋根の無いミナレット(minaret, イスラム教寺院の尖塔、光塔)を除いて、道路からはほとんど見ることができません。このモスクは典型的なベンガル式寄せ棟屋根(Bengali curved roof)の上に1つのドームを有します。現在、このモスクを囲む地域の特に南側と東側を、教会と修道院、2つの学校が使用しています。

聖グレゴリー教会(St. Gregory's Church)

 旧市役所(the old Municipal Office)の向かい側に位置するこの教会は、何段階かにわたって建築されました。聖十字架称賛(the Holy Cross)の儀式のための元々の教会は、1897年以前にフランボワイヤン(flamboyant, 15〜16世紀にフランスで流行した火炎のような様式)風のフレンチ・ゴシック様式で建立されましたが、地震で東の半分を残して崩壊しました。その後、ハース大司教(Archbishop Hurth)がこの教会を再建した際、背後の大きなベランダを礼拝堂に改造しました。西側にはゴシック式アーチと色ガラスの天窓を冠した7つの入り口があります。北西の角にあるポーチ(porch, 建物本体とは別の屋根のついた張り出し玄関、車寄せ)には、元々は時計が取り付けられていた正方形の鐘楼があります。その傍らで人目を引いている、処女マリアの像を収めた洞(ほこら)は、最近ジョセフ神父(Father Joseph)によって建てられたものです。

レボティモホン・シャハ(Rebati Mohan Shaha)、スィタナット・ロイ・チョウドリー(Sitanath Roy Chowdhury)、ボショント・クマール・ダシュ(Basanta Kumar Das)他の家

▲レボティモホン・シャハの家

 これらの家はフォラスゴンジ(Farashganj)、シュトラプール(Sutrapur)、 ロッキバザール(Lakshmibazaar)、 バングラバザール(Banglabazaar)などの地区やその周辺に見られる複庭式(multi-court: 建物が取り囲む中庭が複数ある)邸宅群の中にあります。現存する構造物は築後150年に達します。これらは、鋳鉄製の格子や手すり、バラスター(baluster, 手すりの小柱)、厚く石灰で漆喰された小さな手作りの煉瓦、装飾された柱頭(capital)をもつ高いギリシャ・ローマ式の柱などがふんだんに用いられた煉瓦建築です。これらの豪荘な家屋の多くは、19世紀から20世紀初頭にかけての新興エリート階級である元々の所有者の手を、今では離れています。現在、これらは政府あるいは不法居住者の手にあり、かつて壮麗だった邸宅には時の傷跡が刻まれています。全体的に見れば適切に維持されているとは言いがたいのですが、ほんのわずかに手を入れるだけでかつての優雅な美しさを取り戻すことができるでしょう。そのためには、これら歴史的遺産の価値に気付くように啓蒙してゆくほかありません。

▲スィタナット・ロイ・チョウドリーの家

ドライ・カル(Dholai Khal)運河にかかる鉄の橋

 ダッカは河川交通にとって戦略上際立って重要な位置にあるために、ムガール・スベダール(Mughal Subehdar)はここを首都に選びました。この地の利を強化し、また排水を良くする目的で運河も掘られました。ドライ・カル運河はこのような運河の中で最も名高いもので、ダッカ住民の社会的経済的な条件にも影響を及ぼしました。ドライ・カルはブリゴンガ(Buriganga)川に端を発し、その終わりは再びブリゴンガ川に流れ込みます。支流はバルー(Balu)川へとつながっています。この運河は、モスリンの機織りたちの住むロマンティックな一画を通って流れました。機織りたちは産物をヨーロッパの貴族たちに届けることを望んだのです。その下流では、腕の良い舟大工たちの住むシュトラプール(Sutrapur)を通りました。彼らの造る舟は技巧の限りを尽くして美しく飾られていました。この地区のうららかさが気に入ったノバブたちは、ここに屋形船を浮かべて夏の間を過ごしていました。運河の河口はベグ・ムラード(Beg Murad)にちなんで名付けられた2つの砦によって警護されていました。ムガール期の間に多くの橋がこの運河にかけられました。ヨーロッパから来た旅人は、橋の設計における美的感覚と構造的な技法が高度に発達していることを書き記しています。もとはムガール橋のあった場所に、ウォルター行政長官(Magistrate Walter)が1828年に作ったこの鉄の橋は、開通初日に象を渡らせてテストが行われました。(訳注:現存するのは土台のみと思われます)

フォラスゴンジ(Farashganj)

▲プロションノ・バブーの家

 1730年代にブリゴンガ沿いにできたフォラスゴンジは、さらに西の大邸宅(アッサン・モンジール)から監督されるフランスの交易場でした。19世紀末に、アメリカの実業家であり慈善家のポゴーズ(Pogose)がこの地区を借り受けました。多くの複庭式邸宅がここに住む裕福な実業家によって建てられたのはこの時期です。当時すべての税収はイギリスの国庫に収められていましたが、ある教化された住人がこの地区をフランスの領土だと主張し、イギリスへの税金支払いを拒否して争ったことがあります。この地区は今も、野菜と香辛料を主に扱うにぎやかな商業地域ですが、入り組んだ小道と庭付の家々からは、かつて植民都市の商業地区が誇っていた賑わいをかいま見ることができます。

ルプラール・ハウス(Ruplal House)

 これは19世紀にアメリカ人の地主アラトゥーン(Aratoon)によって建てられた、ダッカで最も有名な2つの邸宅のうちの1つです。この家は後に金貸しのルプラールによって買い取られ改修されました。ギリシャ・インド様式に倣って建てられたこの複庭式邸宅のもっとも卓越した特徴は、長いドーリス式の柱です。1888年にダッカを訪れたダフリン卿(Lord Dafrin)はここで歓迎を受けました。ヨーロッパ人居留者と地元の貴族たちは、ボール・ダンス(舞踏会)をするのにアッサン・モンジールよりもルプラール・ハウスの方を好んだからです。

ノースブルック・ホール(Northbrooke Hall)

 ノースブルック卿(Lord Northbrooke)のダッカ訪問を記念して、ダッカ・コミティーは1879年にラルクティ(Lalkuthi、赤いオフィス)として知られるこの優雅な赤色の建物を建築し、その記念式典が1880年5月24日に行われました。この建物は市政庁舎として設計され、その後は、当時最大の蔵書を誇った図書館、電報局、劇場、カレッジやその他の政府の事務所として使用されました。ジョンソン・ホール(Johnson Hall)と名付けられたクラブハウスも同じ敷地内に建てられました。この建物にはムガール建築とヨーロッパ・ルネサンス様式の要素が混合されています。馬蹄形アーチ、玄関の張り出し窓(projecting bay)、八角形の尖塔(minaret)、装飾を施した手すり壁(parapet)と塔の尖頂(pinnacle)は、この建物の特筆すべき特徴です。

バックランド・バード(Buckland Bundh)

 ムガール王朝は17世紀、川沿いに石の護岸壁を作りました。1860年代に川辺のバンガロー(ベランダに囲まれた平屋)に住んでいた名士からの寄付により、護岸壁の上に長さ1マイルの舗装道路が作られました。この道路は遊歩道として使われ、当時のダッカ総督(commissioner)の名にちなんで命名されました。1927年、ダッカ収税管区はこの堤(つつみ)を政府の資産であると主張し、その地区を維持していたダッカ市当局の反発を買いましたが、けっきょく市民の希望がかなって遊歩道は市民の代表の手にとどまりました。この地区は1963年に内航水運局(BIWTA)の手に渡り、今はいくつかの船着き場や、野菜、果物、香辛料の卸売り業者の倉庫として使われています。しかしながら、さざ波を浮かべた水面や、汽船の汽笛、人夫、川岸の市場の色彩には、人をしばらく立ち止まらせるものがあります。

▲アッサン・モンジールから望むブリゴンガ川

アッサン・モンジール(Ahsan Manjil)

 このヨーロッパ・インド様式の壮麗な宮殿は、最初1835年に当地の大地主によって建てられ、フランス人によって使用されました。1872年から1991年の間に何度か改装が行われました。アッサン・モンジールは貴族社会と富、それに最も名誉ある東ベンガルのノバブ一族がもつ影響力の象徴でした。この宮殿は、英領インドとパキスタンの社会政治的な歴史のなかで、多くの重要な出来事を目撃してきました。今は博物館になっていますが、政府の建築家によるこの保存プロジェクトは1992年にARCASIA金賞を受賞しました。この建物は高いドームのある円形の塔屋を冠した2階建ての建物で、南側の川に面しています。かつては時計塔がありましたが、1888年に竜巻で吹き飛ばされました。この宮殿にある数多くのステンドグラスの扉や窓、大理石の調度品、シャンデリア、陶磁器、銀製品、モスリン織物、クリスタル、絹織物など、往時を想い起こさせる品々も、今はこの博物館を訪れる人々の目を楽しませています。

シャカリ・バザール(Sankhari Bazaar)

 17世紀の始め、ムガール王朝がダッカの南から連れて来た貝細工職人の一団は、シャカリ・バザールに住み着きました。ここは、間口わずか2.5メートルの細長い土地に建てられ、光井(light well: 建物内に光を導く)を有する特筆すべき商店建築で知られています。シャカリの人々の多くは菜食主義者であり、結束の固いヒンドゥー社会を形作っています。彼等の住む色鮮やかな街は、1971年の独立戦争のときパキスタン兵士によって破壊されましたが、彼らは今もこの地区に愛着をもって住んでおり、過去の栄華こそ見られないものの、古い伝統や習慣の多くを保っています。シャカリ・バザールの色彩と音のなかを歩くのは思い出深い体験となるでしょう。

ジョゴンナット大学(Jagannath University)

 当初はブロンモ学校(Brahma School)として1858年アルマニトラ(Armanitola)に設立され、その16年後、虐げられた中低所得層の家庭に人気のある有名なカレッジになりました。ダッカの名士たちはこのカレッジを運営するため定期的に寄付をしました。1995年12月に昇格して最も大きな大学となるまでは、バングラデシュで最大のカレッジでした。ここは今世紀の始めから、都市を基盤とする政治的運動の中心地でした。19世紀末に建てられた本館は、インド・ヨーロッパ様式の2階建て建築です。2階まで達する高いポーチを支える6本のコリント式の柱は、エンタブレチュア(entablature: 柱頭から上の部分で、上からcornice, frieze, architraveの3部からなる)と、ペディメント(pediment: corniceの上の三角形の部分)、特徴的な歯飾り(dentil)を有しています。また上の階には一連の華麗な薔薇窓(rose window)があります。

1. 聖トーマス教会
2.バハドゥル・シャー公園
3.水タンク
4.コビ・ノズルール・カレッジ
5.ロッキバザール・ショヒ・モスジッド
6.聖グレゴリー教会
7.レボティ・モホン・シャハの家
8.スィタナット・ロイ・チョウドゥリの家
9.ドライカル運河にかかる鉄の橋
10.シュリ・ビハリ・ラル・ジェオ寺院
11.ウマ・バブーの家
12.プロションノ・バブーの家
13.ボショント・バブーの家
14.アシュー・バブーの家
15.ビビカ・ローザ
16.シブ寺院とゴクール・ロイの墓
17.ルプラール・ハウス
18.ラルクティ
19.バックランド・バード
20.アッサン・モンジール
21.シャカリ・バザール
22.ポゴース・スクール
23.ジョゴンナト大学


 この文章は、1996年1月13〜14日にバングラデシュ工科大学(BUET)で開催された国際セミナー「過去の中の未来:ダッカの建築遺産」のために企画されたオールドダッカ散策ツアーのパンフレット(Walking Tour of Old Dhaka, WALKING DOWN THE MEMORY LANE)を翻訳・加筆したものです。

(翻訳・撮影:酒井泰幸)


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